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忘れたくない感覚の記録

映画「ドライブ・マイ・カー」感想。

映画「ドライブ・マイ・カー」を観てきた。

 

 

原作である、村上春樹の短編集「女のいない男たち」は勿論読んでいて、前もって、同じタイトルの短編に、「シェエラザード」という、別の短編の話が混ざったもの、という情報を得ていたので、おそらく性的描写がそれなりにあるものと予想し、たまたま別の用事で休みを取っていた日に一人で観に行くことにした。一人で映画を見に行くのは相当ぶりのことだ。

 

(※以下、ネタバレはそんなに含んでいないと思いますが、未視聴の方は注意です。)

 

マニアではない平凡レベルのハルキストである私の目から見て、村上春樹の文章の特徴は、1.ベースのテーマとしてある、一定の年齢を超えると誰もが体感する普遍的な喪失感の描写。2.他のそうでないものとあたかも同列のように描かれる性的表現。3.ジャズやポストロックなどのジャンルを背景にした音楽的リラックス感の演出。にあると思っている。

 

しかし、それらの要素をバランス良く足し算引き算して、ビジュアル化するのは難しく、ともすれば、リアリティの薄いぼんやりした映像作品になってしまいかねないのが、村上作品の映像化の困難さで、かつて氏の最大のヒット作を映画化した「ノルウェイの森」ですら、それに成功しているとは言い難い。

 

けれど、この「ドライブ・マイ・カー」においては、ノルウェイの森の失敗から幾つかを学習したのか、これまでになかったバランス感覚で、村上小説を読むのに極めて近い体験を、映像の視聴によって得ることに成功していると思う。

 

それでも敢えて本作にケチを付けるならば、上に挙げた村上作品の要素のうち、2の村上春樹的性的表現の描写は、原作の短編にシェエラザードのエピソードをマージしてまで、この映画に必然の要素であったか?と私は問いたい。

 

それがなくとも、ドライブ・マイ・カー単体のストーリーだけで、上記の1と3は見事に映像化し切っていたと思うし、映画のオリジナルである、複数の言語で演劇を作り上げる一連のシーンは、ここだけでも、子どもを含めたもっと幅広い層の人が観て楽しめたらいいのに、と思った程に秀逸だった(手話の韓国人女性のキュートなことと言ったら!)だけに、「惜しい」と思ってしまったのだ。本作は全体としては、子どもに見せられる作品には決してなっていないので。

 

本作は、ミニシアター作品として観る映画なら、村上春樹作品の映像化として観る映画なら、十分すぎるほどに成功している作品だと思うけれど、アカデミー賞の作品賞を意識する映画としてなら、敢えて村上作品=含・性的表現の固定概念を打ち破って、ストイックにそれ以外の要素のみで村上作品を表現し切る挑戦があっても良かったのではないか、と私は思った。世界中の多くの人は、たぶん日常会話の中で唐突に、セックスや自慰などの単語を織り交ぜたりはしないのだから。