つぶやきより少しだけ長い何か。

忘れたくない感覚の記録

行事のごはん。

今の奥さんと再婚して、それまでの父子二人の生活から、一番ガラッと変わったものは、まぎれもなく食生活なのだけど、年中行事のある日は、特にそのことを実感する。

 

再婚前までは、恥ずかしながら、日々の忙しさにかまけていて、行事食はおろか、季節の旬を意識した食べ物を食卓に出すことすら、あまり意識できていなかった。

 

けれど、食べ物にこだわりのある奥さんにとっては、行事の日の晩ごはんは、季節を味わうために腕を振るう、格好の機会であるようで。

 

特に、3月3日のひな祭りの日は、女の子のお祭りであることと、奥さんの方の子どもが女の子であることから、他の行事と比べても、ひときわ気合が入っているように見える。

 

f:id:steppapa:20220304202734j:plain

 

こちらは去年のひな祭りの食卓。色鮮やかなちらし寿司と、旬の風味をふんだんに味わえる菜の花のおひたしに、ハマグリのお吸い物と、茶碗蒸し。どれも視覚的にも味覚的にも、近づく春を感じる食べ物ばかりだ。

 

今年も、奥さんは前日から午後休みを取って、食材集めや下準備にいそしんでいた。

 

f:id:steppapa:20220304202801j:plain

 

そんな昨日の晩ごはんは、三宮にある地産地消型マルシェ「ファームスタンド」で仕入れていた、ちらし寿司の具を使ったちらし寿司、若竹煮、ホタルイカ、細切りの人参が詰まった切り口が綺麗な人参の肉巻き、と、また手の込んだ季節の料理が並んでいた。

 

しばらくブログを書く期間が空いてしまった間に、世界はあっという間に暗いニュースで覆われてしまったけど、こうやって季節のごはんを家族で囲んで頂く幸せをかみしめられることと、そんなご馳走を行事の度に毎回ちゃんと出してくれる奥さんに感謝できる暮らしが、これからもずっと続いたらいいなと思う。

 

子どもの、おしごと。

新年度から、息子が通っているスポーツクラブの保護者の長をやることになってしまい、ここ数日ばたばたとしている。

 

f:id:steppapa:20220223134900j:plain

 

私たち夫婦は、元シングル親で、今は連れ子同士のステップファミリーなので、子どもの習い事や、学校関連のおしごとについては、基本的に自分の子の分は自分でやることがルール、というか当たり前になっている。

 

しかし、いざこういう役職を引き受けて、会合の場に出てみると、未だにお父さんが出て来られるケースというのは、まれであり、お父さんは圧倒的にアウェーの立場である。

 

少し前にもブロガーのヨッピーさんが、育児の現場における父親の立場の薄さについての御意見を書いておられたが、「本当にこれ何とかならへんの?」とは確かに思う。

 

あと、このような子ども関連のおしごとを、普段のビジネスのおしごとと同じような感覚でこなしてしまうと、やっぱり会社の仕事とはやり方が違うのだな、と思うことも多々あって。

 

役員の立候補がなかなか出なくて、「全然決まらないのならさっさとくじで決めませんか?」と言いたい時。何か物事を決めるときに、幾つかの案を出して、LINEのグループチャットのメンバー全員にお伺いを立てる時。

 

そんなとき、自分がズイっと一歩前に出て言葉を発してしまうと、場がしんとなって、「ああ、また何かやってしまったかも..」という感覚に陥ることは、少なくは、ない。効率と論理に素直に従ってはいけない難しさ、というものがこの手のおしごとにはあって、父親母親関係なく、そういうのに苦手意識をお持ちの方は多いんだろうな、と感じる。

 

けれど、シングル親だった頃は、誰かに何か思われようが、自分しかいないので、ともかくやってみるしかなかったし、実際アタフタしながら動いてみると、そろそろ...と何処からか協力の手が差し伸べられてくるのも、子ども関連のお仕事あるあるなのだ、ということも分かってきた昨今だったりする。

 

久しぶりに大きめのこういうおしごとを引き受けてみて、「ああ、やっぱり。。」と思うことはありつつも、今回はどこかそれを楽しんでいる自分もあり、あまり気負いすぎずに一年間役目を果たせたらよいな、と思っている。

 

映画「ドライブ・マイ・カー」感想。

映画「ドライブ・マイ・カー」を観てきた。

 

 

原作である、村上春樹の短編集「女のいない男たち」は勿論読んでいて、前もって、同じタイトルの短編に、「シェエラザード」という、別の短編の話が混ざったもの、という情報を得ていたので、おそらく性的描写がそれなりにあるものと予想し、たまたま別の用事で休みを取っていた日に一人で観に行くことにした。一人で映画を見に行くのは相当ぶりのことだ。

 

(※以下、ネタバレはそんなに含んでいないと思いますが、未視聴の方は注意です。)

 

マニアではない平凡レベルのハルキストである私の目から見て、村上春樹の文章の特徴は、1.ベースのテーマとしてある、一定の年齢を超えると誰もが体感する普遍的な喪失感の描写。2.他のそうでないものとあたかも同列のように描かれる性的表現。3.ジャズやポストロックなどのジャンルを背景にした音楽的リラックス感の演出。にあると思っている。

 

しかし、それらの要素をバランス良く足し算引き算して、ビジュアル化するのは難しく、ともすれば、リアリティの薄いぼんやりした映像作品になってしまいかねないのが、村上作品の映像化の困難さで、かつて氏の最大のヒット作を映画化した「ノルウェイの森」ですら、それに成功しているとは言い難い。

 

けれど、この「ドライブ・マイ・カー」においては、ノルウェイの森の失敗から幾つかを学習したのか、これまでになかったバランス感覚で、村上小説を読むのに極めて近い体験を、映像の視聴によって得ることに成功していると思う。

 

それでも敢えて本作にケチを付けるならば、上に挙げた村上作品の要素のうち、2の村上春樹的性的表現の描写は、原作の短編にシェエラザードのエピソードをマージしてまで、この映画に必然の要素であったか?と私は問いたい。

 

それがなくとも、ドライブ・マイ・カー単体のストーリーだけで、上記の1と3は見事に映像化し切っていたと思うし、映画のオリジナルである、複数の言語で演劇を作り上げる一連のシーンは、ここだけでも、子どもを含めたもっと幅広い層の人が観て楽しめたらいいのに、と思った程に秀逸だった(手話の韓国人女性のキュートなことと言ったら!)だけに、「惜しい」と思ってしまったのだ。本作は全体としては、子どもに見せられる作品には決してなっていないので。

 

本作は、ミニシアター作品として観る映画なら、村上春樹作品の映像化として観る映画なら、十分すぎるほどに成功している作品だと思うけれど、アカデミー賞の作品賞を意識する映画としてなら、敢えて村上作品=含・性的表現の固定概念を打ち破って、ストイックにそれ以外の要素のみで村上作品を表現し切る挑戦があっても良かったのではないか、と私は思った。世界中の多くの人は、たぶん日常会話の中で唐突に、セックスや自慰などの単語を織り交ぜたりはしないのだから。